でも結局今日になっても部屋は寒いままです。
少しだけ温度は上がった気がしますが・・・かなり不安です。
学校の帰りに同じ家の2階に住むイラン人夫妻と出会い、車で家まで送ってもらいました。
その時「クリスマスには日本に帰る?」と聞かれて、
帰らないと答えると、私達の家は寒いよ・・・
特に私の部屋は一階ですが、結局地下なんですよね、彼らも私の部屋が寒いことを知っていました。
まだ本格的なチェコの冬をこの部屋で経験してないので、怖いです。
耐えられるかな・・・?
引越し?と思ってしまいました。
学校や他の友人のアパートの暖房はかなり温かいです。暑いくらいです。
私の部屋のような暖房は見たことありません。
オーナーのおじいちゃんが言うには経済的な暖房らしいです。。。
実際他のアパートと光熱費を比べたことがないのでやっぱり不安です。
さて、私がやっと暖房のスイッチを入れたとチェコ人の友人に話すと驚いていました。
前に私の死んだじいちゃんの話をしたので、浩美もじいちゃんと同じ心があるねと言って、
にっこりしてました。
私のじいちゃんは97歳くらいで亡くなりました。見た目は腰も曲がってまるでガンジーみたいでしたが、
体は健康で医者嫌いかほとんどかかったことがなかったです。
頑固で尊敬できる人でした。
そのじいちゃんはいつも野菜しか食べませんでした。肉魚は嫌いで食べているところは見たことがありませんでした。
しかし!私が大学を卒業して久しぶりに家族と暮らし始めたときにじいちゃんが肉を食べていました!
えっとかなり驚きました。
歳をとったら味覚も変わったり、慣れきった食材よりも刺激のあるものを好むということをばあちゃんをみて知っていたので、じいちゃんも肉が好きになったのかなって思いました。
でも母にたずねてみると・・・・
なんと昔から肉も魚も好きだったそうです。
でも他の家族が食べていても食べなかったのは、「もったいないから」だったそうです。
じいちゃんのもったいない精神はすごいことは知っていましたが、あまりに長い間それを
誰にも言わずに実行していたことにかなり、かなりショックを受けました。
この話や子供の頃に私が受けてきたもったいない精神のしつけ?教育の話をチェコ人にすると、
思いのほか喜んでくれました。もっとしてとせがまれるくらいです 笑。
兄が拾った自転車をずっと乗っていて、壊れたので自転車屋にもっていくと、店の人がそれを見て泣いたと言ってました。多分これ以上直せないってことなんでしょう。兄は高校生になって初めて自転車を買ってもらいました。
私も姉も拾ってきた自転車を何度もペンキで色を塗って乗ったいたことを思い出します。
服もそうです。初めて買ってもらったのが何歳だったかなんて言えないです。
お菓子もそうです。
絵のついたノートや鉛筆は多分買ってもらったことないです。
ぬいぐるみは一回あります。
勉強机もいつの時代のかわからない(多分郵便局で廃棄処分になったもの)のを与えられていました。
今はお気に入りですが、あの頃はきつかったな・・・
そうなんです、今だったらいいんだけど、小学生の女の子にはこの教育は全てきつかったです。
父が母に内緒で初めて旅行先でこの店にあるもので好きなの買ってあげると言ってくれたことを思い出します。あの時はあまりの驚きに天国にも上るような、喜びで頭がくらくらしたことをおぼえています。
当時流行っていたお風呂に入れるフラッペという人形を買ってもらいました。最初で最後の人形です。
水色のかわいすぎるクマです。
でもその分、母はなんでも作っていました。服はもちろん、家で使うスリッパから、遠足のリュック、帽子、本棚(ダンボールに色紙を張る)、毛糸で作れるものはなんでも。カーテン、布団カーバー。。とにかくカバー類。
もちろん野菜果物と作れる食べ物は全部です。お菓子は買わず、年末に餅と一緒にあられも作り、1年間のお菓子はこの田舎あられでした。
今は健康志向だったり、手作りのものが流行っているし、作ること自体がかっこいいし、趣味になっています。でも私の子供の頃は使い捨ての時代になっていて、作るってことはやぼったいとされていました。
仮に・・・仮に母に美のセンスがあればまだよかったのですが、安い布なので作る服はかわいい服をきた友人の前では本当に恥ずかしかったことを思い出します。
でもこの話はチェコ人にとってかなり親近感があったようで、私もうれしいです。
チェコにきても日本にいても私は誰よりお金を使えない人なんだと思いました。
あっても使えないっていつも思うけど変な気持ちがします。
教育って大事ですね。その人の心をずーっと決定付けてきます。困ったものです。
彫刻を作っていく上ではこういう うっと心に引っかかる思い出があるのは
宝物だと思います。宝物は何もいい思い出ばかりではないですよね。
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